コクトーの実験室 ~現実を拡張せよ!~

繰り返しの日常から、いかにして現実を広げていくのか。その過程をほぼリアルタイムでシェアします。

誰もが無視している人生で一番の問題

僕らの人生の中で、一番の問題ってなんでしょうか?

 

誰でも幸せになりたいし、苦しいことは嫌ですよね。

 

でも、現実は心地よいことは少なく、しんどいことは多いです。

 

だからみんな、おいしいものを食べたり、旅行に行ったり、恋愛したり、ネットのコンテンツ(動画とか音楽とか文章)を消費していますよね。

もちろん僕も含めて。

 

まるで、現実から逃げるように。

 

これらを踏まえて、

人生で一番大事なことってなんだろう?って考えるのは、

とても大事だと思うんです。

 

何なんでしょう?何だと思いますか?

 

これは現在の、僕なりの答えなのですが・・・

 

自分はどこから来てどこから行くのか?

自分はいずれ死ぬし、大事なあの人も、これから生まれてくる人々もいずれ死ぬ。

じゃあ、人間っていったい何なのか?

生まれて死ぬだけのこの人生を、どう捉えるのか?

 

ってことが一番大事なことだと思うんです。

 

抽象的すぎるでしょうか?

 

でも、これって、気になっているのは僕だけでしょうか?

無視して、行きていけるような問題でしょうか?

 

例えば、お金があって、夢中になれる仕事があって、人間関係が良好で、愛する人がいて・・・それが生きている間、ずっと維持できるとして・・・

で、本当にそれで何もかも解決できますかね?

 

過去の偉人も、富や名声を得た人は大勢いたのに、自分の死の恐怖や虚しさからは抜けられなかったんじゃないですか?

 

大学3回生ぐらいの時だったかな、将来が何となく見える時期になってきた時に、

「あ、俺の人生はこのままいけばもうレールに乗って終わりだな。」

と、思い始めて、

「そもそもどういうふうな人生を送れば、心から"良かった!"と思えるんだろう?」

と考えた時に、

「どういう人生を送ろうとも、完全に満足することはできないな。だって、人生で起こることは、自分を基盤として起こるのに、その基盤そのものがなくなる(=死ぬ)んだから。」ってことに気が付きました。

だから、この、"いずれ死ぬ自分自身"を何とかしないと、本当にクリアな人生は送れないわけです。

 

そして、その解決策が仏教だと僕は思っているので、現在勉強中です。

いずれまたシェアしますね。

山下良道さんの一法庵はおすすめです。

 

www.onedhamma.com

 

では、これにて!

 

 

 

 

 

 

 

 

理想と幸せの違い

こんにちは。コクトーです。

 

この記事を書いているのは1月の後半なのですが、

今年の冬(2018年)はとんでもなく寒いですね。

温かいココアを飲みながら、暖房効かせた部屋でキーボードをカタカタやっております。

 

さて、今回は自分の幸せを考える上で、大事だなーと思うことを書かせてもらいます。

 

あなたは、「理想の自分を思い浮かべて下さい」と言われたら、どんな状態の自分をイメージしますか?

 

 

 

・いつも笑顔で明るく、周りに元気を与えている自分。

・仕事でバリバリ結果を出して、上司や部下から一目置かれている自分。

・素敵な異性と付き合って、仲良くデートしている自分

不労所得を得て、南国のビーチでバカンス三昧の自分

 

など、色々ありますよね。

 

でも、ある時ふと気がついたのですが、

これって、

自分自身を外側の視点から観たイメージですよね?

 

言い換えれば、他人目線から見たイメージとも言えます。

 

でも、現実的に一人の内面を考えてみると、

 

笑顔で明るく振舞っているけど、内心はすごく緊張していたり、

仕事で結果をだしているけど、いつも仕事のことが頭から離れなかったり、

パートナーに嫌われるのが怖くて気が気でなかったり、

バカンス三昧だけど退屈でしょうがなかったり、

 

など、とても充実しているとはいえないかもしれないわけです。

 

外面と内面のギャップですね。

 

これって、かなり頻繁に、しかも無自覚に陥りがちな罠だと思うんですよ。

 

目標は達成したのに、こんなはずじゃなかった!ってやつですね。

 

ひどい場合だと、思い描いていた理想を何十年もかけて目標を達成したのに、充実感はすぐに消え、たいして幸せにはなれなかった、ってこともあるでしょう。

 

理想を達成したのに幸せではない。

 

つまり、理想と幸せは違うものなんだ、と言えます。

 

もちろん、理想や夢を持って、それを達成することがいけないというわけではありません。

 

ただ、幸せとか自分にとっての成功というのは、案外素朴なもので、普段の生活の中にあるものかもしれません。

だったら、それを基準に自分にとっての理想や夢を決めればいいわけです。

例えば、イチローが小学生の頃から明確に目標を持ってプロ野球選手になろうとしていたのは有名な話ですが、だからといって、

プロ野球選手になれば俺は幸せになれるんだ!」と思いながら目指していたわけではないと思うんです。

もちろん必死だったでしょう。

でもおそらく彼は、野球そのものが楽しかったはずです。

そして、その延長にたまたまプロ野球選手があっただけではないかと思うんです。

僕はイチローに詳しいわけではないので、詳しいことまでは分かりませんが、

40台になってもメジャーで活躍し続けるのは、好きじゃないとできない。

言い換えれば、野球をすることそのものが幸せでなければとても続かないと思うんです。

だから僕達も、何かそれっぽい理想をただ掲げるのではなく、

自分はどういう時に幸せを感じるのか?

今まではどうだったのか?

を一度考えた上で、

その状態をより長く続けられるような現実を創る努力をした方がいいと思います。

 

何でこんなことを書くのかといいますと、

僕は目標設定というものがどうも苦手で、

とりあえず設定してみても全然ピンとこないんですよ。

だからやる気もでない。

 

なんでかなーとずっと思っていたんですが、

仕事から帰って来て部屋でウトウトしてる時にふと気が付きました。

 

「自分が幸せを感じる、あるいはリラックスできることを基準に目指したい未来を決めればいいのであって、力んでもっともらしい目標設定なんてしたところでやる気が続くはずがない。だって、それは自分にとって幸せではないんだから。」ってことに。

 

まぁ、そんな話です。

"自分と向き合う"のはほんの少しでいいんじゃない?

ここ3年ほど、自分と向き合いまくった僕が、出した結論。

 

"自分と向き合う"のはほんの少しでいい。

 

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今は"心の時代?"

昨今では、「今は心の時代だよねー」っていうニュアンスの言葉をよく耳にします。

確かにそのとおりだと思います。

 

戦前の、モノやサービスが行き届いていなかった時代から、急速な経済成長を遂げ、今ではモノは余り、庶民でもあらゆるサービスを受けられるようになった。

 

でも、今度はその反動で、「モノではなく心が大事」って風潮になっている。

まぁ、経済が行き詰まってきて、GDPも中国に抜かれ、今も国際的にみた地位(?)は下がり続けている。おまけに人類史上例を見ない、超絶な少子高齢化が起きているのに、有効な対策はとれないでいる。

つまり、"モノ・金"を大量に所有するという今までのごまかしがきかなくなってきたんじゃないのかなぁと思う。

なぜなら、これ以上の成長が国として望めないので、豊かになれるのはごく一部の人だけだからだ。

というか、ぶっちゃけ、一番経済的な恩恵を受けてきた今の老人達を見ても全然幸福そうには見えないんだよな~。(若い世代なら共感してくれる・・・はず?)

 

おまけに、日本は実質無神論者の国家です。

他の国ではあって当たり前の、宗教という精神的な支えがない。

これは僕の個人的な考えなのだけれど、別に宗教でなくても、何かしらの精神的な支えってのは人間にとって必要だと思う。

たぶん普通の日本人なら、宗教という言葉を聞くだけで拒絶反応を起こす人が大半じゃないだろうか。

でも、宗教が具体的に根付いてない国って、世界的に見ても珍しいんですよ。

 

ネガティブな見方かもしれないけれど、

人間って、世界を自分で作ったわけではないし、自分で自分を選んで生まれてきたわけでもないし、状況や未来どころか自分の心や行動ですら完璧にコントロールできないじゃないですか。

つまり、人間って、

"勝手に産まれさせられて"

"否が応でも死んでいく"存在だと思うんです。

 

これを自覚した時に、たぶん人には、

何か信じるもの=人生を全うする理由

が必要だと僕は勝手に確信しているんですが、今の日本にはそれが在るようには思えない。

 

だから、今の日本人のメンタルはかなりやばいことになってるんじゃないのかなぁと思う。

世俗にもたいして楽しみは見いだせず、神にもすがれないんだから。

 

そこで必然的に、「心の時代」とか「自己成長」とか「自分らしく生きる」ということの関心が向いてくると思うんです。

 

みんなって誰?

 

はい、わたしのことです。

 

自分と向き合いすぎると生命力が弱る

上の方で、なんで偉そうに個人的な想いを述べたのかというと、

述べた内容がまさに、僕が辿ってきた精神的なプロセスそのものだからです。

 

世俗にも価値を見いだせず、神(とか宗教とか)を信じることもできない。

だから、「確かに存在する自分と向き合う」てことを始めたんです。

自分の感情や思考を辿ってみたり、

ホントは何がやりたいんだろう?なんてことを探ってみたり、

いずれなくなる命なら、どういう人生を全うしたいか?ってことを考えてみたりしました。

 

その結果、何も分かりませんでした。

 

いや、ホントに。

 

俺は人生でこれを成し遂げたい!とか、

このために命を賭ける!

みたいなものは見つからなかったんです。

 

なんでかって、自分にとって、自分の命=人生より重たいものなんてないから。

恋人や家族がいれば話は別かもしれないけど、

生きる理由が他人のためっていうのは、昔から違和感が拭えないんです、僕は。

 

誰かのために生きる、他人を幸せにするために生きるってよく聞きますが、

"じゃあその他人は何のために生きてるの?"って問われたら、答えようがないじゃないですか。"AさんはBさんのために、BさんはCさんのために、CさんはDさんのために生きるのか?なんだかネズミ講みたいだなぁ。"などと思ってしまいますし、

それでは家族や身寄りのない人は生きる理由がないってことになりますよね。

そんなのおかしいじゃないですかー。

 

 

というわけで、自分が納得できるだけの生きる理由を探そうとして、自分と向き合ってみたんですが、何も分かりませんでした。

 

それどころか、かなり、、、そう、かなり精神状態が悪化しました。

 

それもそのはず。

 

こういう、答えの出ない大きな問いっていうのは、

昔から哲学者とか宗教者が一生かけて答えを出そうとしても分からずじまいで、自殺したり、発狂したりするような代物なんですね。

だから、例えば仏教の僧侶は出家をして、その問題だけに取り組む。

それでも分からないものなんです。

 

たぶん、答えが分かったって言う人は、何かを無条件に信じているんだろうなぁと思う。土台=信じるものがないと、答えは出せないから。

 

でも、分かっても分からなくても人生は続くのだ。

 

 

 

 

 

 

同じ人間 違う生き物

「僕ら人間は同じ人間なんだから、理解し合える」

「所詮人間同士は理解し合えない」

ではなくて、

「俺達は同じ人間だけど違う生き物だよね」

という破綻した物言いが実は的を得ているんじゃないかという話。

 

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欠点に悩む

 

僕は欠点が多く、不器用な人間だ。

 

手先は不器用だし、観察力に欠けるし、興味がないことを考えたり、やり続けたりするのが苦手だ。

だから、よく人からからかわれることが多い。

 

特に大きな失敗もなく、今まで順風満帆な人生を歩んできたのだが、それは端から観たらそう見えるというだけの話である。

実際は中学校ぐらいから今までけっこう人からネタにされることが多く、また、人が当たり前に知っていることやできることでも、上手にできないことが多い。

(飲み会で料理を取り分けたり、車の運転だったり)

 

また、人と感覚の違う部分があるらしく、いまいち会話のリズムであったり、場の雰囲気に乗り切れないことが多かった。

 

だからなのか、よく自分の欠点に悩み、なぜこんなこともできないんだろうか、と落ち込むことも多い。

 

そんな僕だから、とりわけ自分と他人について考えることも人よりはかなり多いと思う。

 

いうまでもなく、悩み・・・特に「自身のなさ」や「劣等感」で悩む人は、他人との比較で苦しんでいる。

"人より自分は劣っている"と感じることはたぶん誰にでもある。

そしてその感覚はとてもつらいものだ。

 

"みんな同じ"という前提を捨てよう

他人と比較して、そこから来る劣等感は、自分を成長させるバネになる場合もあるのだろうが、たいていの場合は心を憂鬱感・無気力・焦りでかき乱し、その人から行動力を奪ってしまうと思う。

でも、なぜ他人と自分をわざわざ比較するのだろう。

それはたぶん、どこかで、

「あの人と自分は同じ人間なんだから、比べることができる」

と思っているからではないだろうか。

「あなたと私とあの人は同じ人間で、同じ土俵の上に立っている」

と思うから、ついつい比べてしまう。何もいいことはないのに。

 

だから見方を変えてみる。

 

「僕らは見た目と作りは同じだけど、実は違う種類の生き物なのだ」と思えばいいのだ。

 

そしてたぶんこの例えはそんなに的外れでもないはずだ。

 

今も昔も、本やテレビで色々な人の生き方に触れることができる。

特に最近は誰でもブログを気楽に書けるおかげで、情報発信をする人が爆発的に増えてきた。

色んな人を観ているとつくづく思う。

「人とはこんなにも違うものか!」と。

 

それはもう、同じ生き物とは思えない人もいる。

 

でもそれは、特別な誰かと凡人を比べた場合だけの話じゃない。

 

ごく普通に見えるサラリーマンが100人いたとしたら、それぞれみんなが、ホントは違う種類の生き物なのだ。

 

違う生き物同士を比べることに意味はあるだろうか?

 

サンマとネコを比べて、どちらが大きいか

カマキリとライオンを比べて、どちらが勇気があるか

ヤシの木とヒマワリを比べて、どちらが美しいか

 

そんなことを競うことに意味がないのと同じで、人間同士を同じ土俵に乗せ、比較することに意味はない。そんなの、キチガイじみている。

 

 

自分らしい成長を

 

つまり、他人と自分を比べることは、そもそもがおかしなことであり、不可能なことなのだ。そんなことをしていては、一部の能力と才能に恵まれた人しか気分よく生きることはできないし、そういう人達も、常に自分と他人を比べていないといけないので、内心ビクビクしながら生活することになるかもしれない。

 

そうではなくて、

自分はなんのために成長したいのか

そもそも成長ってなんだ

自分はどう生きたいんだ

ってことを少しずつでも知っていかないと、いつまでたっても前に進んでいる実感が湧かないと思う。

 

固定された、一つの"正しさの型"があって、誰もが自分をそのカタチに加工しようとするのではなくて、

僕にとって、あなたにとって、あの人にとってふさわしく、しかも自然な型があって、それぞれがそこに向かって成長・変化していくようになっていけば、とても美しいことだと思う。そしてたぶん、そういう生き方をする人が増えると、他人をむやみに批判したり、建前で身を守ったり、お互いがお互いを加工しようとするギスギスした今のこの空気感も和らいでいくのではないかなぁと思う。

 

 

 

 

 

 

たぶん、自分を守る必要なんてないのだ

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最近、坂爪圭吾さんのいばや通信を読みまくっている。

 

この人の生き方のなんと清々しいことか。

この人の文章のなんと力強いことか。

 

今までの人生の中で、僕は「自分を成長させる」とか、「自分をスマートに見せる」ことを躍起になってやろうとしてきた。(全然できていないが)

特に社会人になってから、その傾向が強くなってきた気がする。

 

でもたぶん、それは間違いだ。

ここ3年ぐらい、いいようのない不安やもやもやを感じていたのだけど、どうやら僕は自分を守ろうとしすぎていたみたいだ。

もっというと、自分が分かる範囲での常識や”こうあるべき”に自分を適応させようとしていたのだ。

つまり、確実に安全な範囲に自分を押し込め、守ろうとしていたのである。

それが苦しみの原因だったことにようやく気がついた。

 

上記のいばや通信でよく言われていることがあって、それは"死んでこい"という意味のフレーズだ。

たぶん人は、自分自身を何かの基準に当てはめて、"生きよう"とすると腐る。

そこには何の新鮮さも、驚きも、世界が開けてくるあの開放感もない。

生きることで精一杯だった時代はそれで良かったのかもしれない。

死ぬことが身近で、みんなが安全に生きていることに喜びを感じられた時代があったのかもしれない。

でも今は違う。

生きること、安全であることが当たり前になった。

代わりに、人間から、生き生きとした活力・純粋で自然で素直な喜びが失われている気がする。たぶん僕らは一度、蓄積したものを削ぎ落として、原点を思い出す=野生とか自然と呼ばれるものを取り戻す必要があるのだと思う。

 

どうも、今の日本で暮らしていると、生命力というか、生きる力みたいなものがすり減っていく気がしていたのだが、最近なんとなく原因が分かってきた。

要するに、生き延びよう・保証を得ようとしてはダメなのだと思う。

 

世の中には、目標達成のための方法やスキルが溢れているが、そもそもフツーの意味での成功。。。金儲けとか有名になるとか、素敵な異性をゲットするとか。。。ってことに本気で、本気で憧れている人はどのぐらいいるのだろうか?ぶっちゃけ、もうそういうのには飽き飽きしていて、魅力を感じません!って人が実は多いように思う。(特に若い世代になればなるほど)。だって、そういうものを追い求めてきた、今の50代以降の人達が、ちっとも幸せそうじゃないんだから。

 

つまり、新しい価値観がいよいよ必要になってきていて、その芽はあちこちで出てきているように感じる。特にネット上で。

 

蓄積の価値観がもう終わったのだと思う。

これからは、いかにシンプルに、自分にとって大事なものを大事にしていくかが問われてくるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最優先事項に沿って行動する

僕がサラリーマン生活に疑問を持ち始めたのは、社会人になってから1年半が過ぎた頃でした。

 

・このままの生活を続けていて、本当に納得できる人生が送れるのか?

・今の延長で仕事やプライベートを充実させるのは何か違う気がする。

・老人になって定年するまで、興味のないこと・嫌なことに一日の大半の時間と労力を使うのは、まともな生き方といえるのだろうか?そうまでして社会貢献したり、人の役に立つために俺たちは生きているんだろうか

・成否にかかわらず自分の思うように生きるほうが、ダラダラと不満をくすぶらせて生きるよりずっといいんじゃないか?

 

典型的な自分探し野郎の思考ですが、本人にとってはかなり切実なんですよね。

なにせ、毎日毎日こういうことを考えてもがき苦しんでいるんだから(笑)

 

いつになったらこの苦しみは終わるのか・・・

今でもう2年ほど、特に解決の兆しが見えない状況ですからねぇ。

 

でも、この苦しみから学んだことがあります。

 

"コンディションを整える"系では現状を変えられない

 経過

なんか毎日元気が出ないなと感じてたので、まずは土台固めが重要だと思い、食事、運動、睡眠などを見直した。

・いつのまにか、土台を固めることが目的になっていた。

 東洋医学のセミナーに30万円ほど払って参加

 運動とか瞑想の本・ブログを読み漁る

 ジム通い

・土台を固めれば、元気がでたり、行動的になれるんじゃないかと期待していた

・でも、なんだか生活にハリというか、進んでる感が出ない

 

直接現状を変えられそうな行動は何か?

 

・ハリがでないのは、自分にとってよりよい未来をイメージさせてくれるような活動をやていなかったから。

・まずはどういう未来を作りたいか。を決める(完璧に決めなくていい)

・そのためにはまず、どんな行動を最優先にすべきか?を定める。

・コンディションを整えるのはその後。 

 

行動を少しずつ習慣化する

 ・初めからきっちりやろうとしない

・まずはカタチだけ真似てみる

例)ブログなら、文字数や内容など気にせずに、思いついたことを書いてみる。

  読書なら、とりあえず本を読む習慣そのものをつける。理解度は問わない

  運動なら、まずは時間を作って、着替えて、歩いてみる。効果がありそうかどうかは2の次。

・行動を多く設定しすぎない。

・完璧な予定などないし、完璧に予定をこなせる人間などいない。

 

読んで気がついた方もおられるかもしれませんが、要は

"結果を気にせず、期待せず、気楽にやり続ける"ことが大事だ、と言いたいわけです。

 

僕も含めて大抵の人は、何をするにも結果ばかり気にして

「これは本当に正しいやり方なんだろうか」

「もっと他にいい方法があるんじゃないか」

「もう10日も経つのに何の成果もでないじゃないか!」

「なんとしても完璧にこなさねば」

 

などといって、毎日焦り、からまわりしているのが正直なところではないでしょうか?

 

でも、やっぱりそれでは結果が出るまで続けられないと思うんですよね。

(そもそもまともな精神状態じゃないし。)

 

だから、もっと長期的な視点に立って、力を抜いて作業することが大事なんじゃないかと思った次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

期待しない

ネガティブに思われるかもしれません

"人生に期待すること"って、辞めた方がいいんじゃないかと最近思います。

 

これはホントにネガティブな意味で言っているんじゃないんです。

 

ただ、どうも、今に生きる僕らは自分自身や人生に多くを求めすぎているような気がします。

子供の頃から「夢を持て」「人生は楽しんでこそだ」「常に希望を持って、後悔のないように」などと僕らは言われてきました。

 

でも、現実はどうか?

 

ほとんどの人・・・少なくとも9割以上の人は、パッとしない、平凡で退屈な人生を送っているのではないでしょうか?それが現実ではないでしょうか?

 

でも、それって当たり前というか、人間ってそんなもんじゃないかと思うんです。

 

人間の歴史が始まってから今まで、人生に満足して死んでいった人の数って、割合でいえばかなり少ないんじゃないでしょうか?

 

そしてだからこそ、「もっといい人生を送りたい!」と思い、悩む人は常に絶えないし、上記のような「夢や希望を持って人生を歩もう!」という主張が絶えないんだと思います。

 

”期待”が毒になる

でも、夢や希望・・・いわゆる、"何かに期待すること"って毒になることが多いと思います。特に今の時代では、人々の人生への期待値が高すぎて、理想と現実のギャップに苦しむことが多いのではないでしょうか。

 

参考までに僕自身の事例をあげると・・・

・人生は、自分の好きなことをして、後悔のないように生きてナンボだ。少なくともそれを目指さなきゃならない!

・仕事や恋愛、趣味が充実するように努力すべきだ!少なくとも、充実させることを諦めてはいけない!

・シケた人生はごめんだ。そんな人生、後悔しか残らない(視野が狭い)

・自分はこれから歳をとっていく一方だし、日本自体もどんどん傾いていくだろう。

そんな状況で、現状維持のまま生きるなんて、堕落だ。

 

・・・こんな思いがありました。ていうか、今でもあります。

 

でも、現実問題、本当に現実を見てみると、

特に夢と呼べるものもなく、挑戦と呼べる挑戦もしなまま、日々興味もない、むしろ苦痛な仕事や家事に追われながらただ歳とり、しっくりいかない人生の幕を閉じる

そんな人が9割以上でしょう??

 

こんな人生がすばらしいと言っているわけじゃありません。

華やかに生きた過去の偉人や今何かに向かって頑張っている人はすごいなぁと思います。

 

でも、そこを基準にして、

それができて当たり前!それを目指さなきゃいけない!

という前提が強すぎると、常に理想と現実のギャップに苦しみ続け、しかも期待が大きすぎるので、何をやっても続かない、行動できないという状態に陥ってしまうことがあります。(僕はそのパターンです)

 

なぜ期待してしまうのか

でも、なんで人は、特に現代人は人生に期待しすぎてしまうのでしょうか?

 

それはたぶん、”人生に保証を求める”のが癖になってしまっているからだと思います。

もっと深掘りするなら、世の中に当たり前に存在する、死や理不尽、虚しさを直視していない・・・もとい覆い隠していることが原因だと思います。

 

今の日本にはたくさんの保証があります。

給料、保険、生活保護、医療、各種サービス・・・

これらを使って、安全で快適な生活を送る。

これはもちろん、すばらしいことだと思います。

でも一方で、忘れてしまう事実があって、それは、

人生には絶対的な保証はないってことです。

 

だって実際、望みどおりの人生を平穏無事に歩んで、かつ満足している人なんて現代人にはほとんといないんだし。

 

なのに、自分は、自分だけは望みどおりの人生を生きる・・・生きなければいけないって思うのは、あまりにも都合が良すぎる気がします。

 

淡々と生活する

でもだからといって、夢や希望を持ってはいけないとか、やりたいことをやってはいけないと言いたいのではありません。

そうではなく、もっと自分や他人、起きる出来事や人生への期待値を下げたほうが、楽に生きられるし、日々起こることに対してフラットに対処できますよ、ということです。だって、"こんなはずじゃないんだ!"っていう葛藤がなくなりますからね。

 

その上で、やりたいと思うことがあればやればいいし、目指せばいい。

ホントに強くて、どうしようもないくらいの欲望があるならともかく、

そういうものを持たなきゃいけないとか、目指さなきゃいけないって考え方は、害になることが多いのではないでしょうか、ってことです。

 

                             以上