物語とその外側
スポンサーリンク
自分はいつか死ぬ
他人ではなくこの自分が死ぬ
やっぱりここは外せない
何を成し遂げても、手に入れても、どれだけ尊敬されても、生きてる間に楽しい思いをしても、人間は自分が死ぬってことの前には全くの無力じゃないのか?
人生の中で起こる出来事、成功失敗、喜怒哀楽というのは、いわば物語の中身の話だ。
人生とは物語のことだ。
でもそれには必ず終りが来る。
人工知能とか医療の発展でたとえ数百歳に伸びたとしても、必ず死ぬときがくる。
そう考えると、なんともいえない虚無感に襲われる。
俺が人生でやってきたこと、今やっていること、これからやろうとしていることに意味はあるのか?
たとえそれがものすごく人々の役にたったとして、その人々もやがてはいなくなる。
そもそも何か、役に立つということにどれほどの価値があるのだろうか。
どれだけ便利になっても、どれだけ不快なことが減って快感を感じることが増えても、それはただそれだけのこと。
生まれて、しばらく生きて、いなくなる。この構造の中身の話でしかない。
結局、人間が、他ならぬ自分自身が生まれて生きて死ぬというその事自体に納得できなければ、心の底からの充実なんてないのだろう。
死について語ると、現代の日本ではこういった趣旨の反応がかえってくるだろう。
すなわち、
「人間はいつか必ず死ぬなんてあたりまえなんだから受け入れよう。
そして、生きている間はめいいっぱい楽しもう。そうしないと損ですよ!」
でも、ほとんどの人の中には、"死んだら終わりだよなぁ"というぼんやりした不安と共に、何か人生を"楽しまなきゃいけない"というじりじりした焦燥感があるような気がする。
それって無茶だ。自分の行く末が"終わり"な場所で、しかも"楽しむ"という義務を負っているんだから。
かといって、死について延々と考え続け、悩み続ける人生を送るのも何かもったいない気がする。だって俺は生きていて、色々な感覚や感情、考えがあって、それらをどうにか動かして物語を生み出すことができるのだから。しかも期間はたった一回きりで、時間も限られている。
死とか人生について考えだすと、日常のごちゃごちゃしたことなどどうでもよくなって、出家でもしたい気分になってくるけれど、それはホントに切羽つまった、どうしようもなく"死についての問い"に追い詰められている人がやることであって、ほとんどの人ははそうじゃない。
大多数は日常を生きている。
なら、そこにもちゃんと意味を見出したいと僕は思う。
結局、物語(=日常)とその外側(=死、未知)の両方を見据えながら生きていくのがベストだと思う。
物語の外側は、本質的だけど、そこにのめりこみすぎると日常にコミットすることができなくなる。
それはもったいないことだ。
たぶん、日常にも学ぶべきことはあるはずだから。
両方をちゃんとリアルに感じながら生きる。
これは一生のテーマだなぁ。