同じ人間 違う生き物
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「僕ら人間は同じ人間なんだから、理解し合える」
「所詮人間同士は理解し合えない」
ではなくて、
「俺達は同じ人間だけど違う生き物だよね」
という破綻した物言いが実は的を得ているんじゃないかという話。
欠点に悩む
僕は欠点が多く、不器用な人間だ。
手先は不器用だし、観察力に欠けるし、興味がないことを考えたり、やり続けたりするのが苦手だ。
だから、よく人からからかわれることが多い。
特に大きな失敗もなく、今まで順風満帆な人生を歩んできたのだが、それは端から観たらそう見えるというだけの話である。
実際は中学校ぐらいから今までけっこう人からネタにされることが多く、また、人が当たり前に知っていることやできることでも、上手にできないことが多い。
(飲み会で料理を取り分けたり、車の運転だったり)
また、人と感覚の違う部分があるらしく、いまいち会話のリズムであったり、場の雰囲気に乗り切れないことが多かった。
だからなのか、よく自分の欠点に悩み、なぜこんなこともできないんだろうか、と落ち込むことも多い。
そんな僕だから、とりわけ自分と他人について考えることも人よりはかなり多いと思う。
いうまでもなく、悩み・・・特に「自身のなさ」や「劣等感」で悩む人は、他人との比較で苦しんでいる。
"人より自分は劣っている"と感じることはたぶん誰にでもある。
そしてその感覚はとてもつらいものだ。
"みんな同じ"という前提を捨てよう
他人と比較して、そこから来る劣等感は、自分を成長させるバネになる場合もあるのだろうが、たいていの場合は心を憂鬱感・無気力・焦りでかき乱し、その人から行動力を奪ってしまうと思う。
でも、なぜ他人と自分をわざわざ比較するのだろう。
それはたぶん、どこかで、
「あの人と自分は同じ人間なんだから、比べることができる」
と思っているからではないだろうか。
「あなたと私とあの人は同じ人間で、同じ土俵の上に立っている」
と思うから、ついつい比べてしまう。何もいいことはないのに。
だから見方を変えてみる。
「僕らは見た目と作りは同じだけど、実は違う種類の生き物なのだ」と思えばいいのだ。
そしてたぶんこの例えはそんなに的外れでもないはずだ。
今も昔も、本やテレビで色々な人の生き方に触れることができる。
特に最近は誰でもブログを気楽に書けるおかげで、情報発信をする人が爆発的に増えてきた。
色んな人を観ているとつくづく思う。
「人とはこんなにも違うものか!」と。
それはもう、同じ生き物とは思えない人もいる。
でもそれは、特別な誰かと凡人を比べた場合だけの話じゃない。
ごく普通に見えるサラリーマンが100人いたとしたら、それぞれみんなが、ホントは違う種類の生き物なのだ。
違う生き物同士を比べることに意味はあるだろうか?
サンマとネコを比べて、どちらが大きいか
カマキリとライオンを比べて、どちらが勇気があるか
ヤシの木とヒマワリを比べて、どちらが美しいか
そんなことを競うことに意味がないのと同じで、人間同士を同じ土俵に乗せ、比較することに意味はない。そんなの、キチガイじみている。
自分らしい成長を
つまり、他人と自分を比べることは、そもそもがおかしなことであり、不可能なことなのだ。そんなことをしていては、一部の能力と才能に恵まれた人しか気分よく生きることはできないし、そういう人達も、常に自分と他人を比べていないといけないので、内心ビクビクしながら生活することになるかもしれない。
そうではなくて、
自分はなんのために成長したいのか
そもそも成長ってなんだ
自分はどう生きたいんだ
ってことを少しずつでも知っていかないと、いつまでたっても前に進んでいる実感が湧かないと思う。
固定された、一つの"正しさの型"があって、誰もが自分をそのカタチに加工しようとするのではなくて、
僕にとって、あなたにとって、あの人にとってふさわしく、しかも自然な型があって、それぞれがそこに向かって成長・変化していくようになっていけば、とても美しいことだと思う。そしてたぶん、そういう生き方をする人が増えると、他人をむやみに批判したり、建前で身を守ったり、お互いがお互いを加工しようとするギスギスした今のこの空気感も和らいでいくのではないかなぁと思う。