コクトーの実験室 ~現実を拡張せよ!~

繰り返しの日常から、いかにして現実を広げていくのか。その過程をほぼリアルタイムでシェアします。

"自分と向き合う"のはほんの少しでいいんじゃない?

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ここ3年ほど、自分と向き合いまくった僕が、出した結論。

 

"自分と向き合う"のはほんの少しでいい。

 

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今は"心の時代?"

昨今では、「今は心の時代だよねー」っていうニュアンスの言葉をよく耳にします。

確かにそのとおりだと思います。

 

戦前の、モノやサービスが行き届いていなかった時代から、急速な経済成長を遂げ、今ではモノは余り、庶民でもあらゆるサービスを受けられるようになった。

 

でも、今度はその反動で、「モノではなく心が大事」って風潮になっている。

まぁ、経済が行き詰まってきて、GDPも中国に抜かれ、今も国際的にみた地位(?)は下がり続けている。おまけに人類史上例を見ない、超絶な少子高齢化が起きているのに、有効な対策はとれないでいる。

つまり、"モノ・金"を大量に所有するという今までのごまかしがきかなくなってきたんじゃないのかなぁと思う。

なぜなら、これ以上の成長が国として望めないので、豊かになれるのはごく一部の人だけだからだ。

というか、ぶっちゃけ、一番経済的な恩恵を受けてきた今の老人達を見ても全然幸福そうには見えないんだよな~。(若い世代なら共感してくれる・・・はず?)

 

おまけに、日本は実質無神論者の国家です。

他の国ではあって当たり前の、宗教という精神的な支えがない。

これは僕の個人的な考えなのだけれど、別に宗教でなくても、何かしらの精神的な支えってのは人間にとって必要だと思う。

たぶん普通の日本人なら、宗教という言葉を聞くだけで拒絶反応を起こす人が大半じゃないだろうか。

でも、宗教が具体的に根付いてない国って、世界的に見ても珍しいんですよ。

 

ネガティブな見方かもしれないけれど、

人間って、世界を自分で作ったわけではないし、自分で自分を選んで生まれてきたわけでもないし、状況や未来どころか自分の心や行動ですら完璧にコントロールできないじゃないですか。

つまり、人間って、

"勝手に産まれさせられて"

"否が応でも死んでいく"存在だと思うんです。

 

これを自覚した時に、たぶん人には、

何か信じるもの=人生を全うする理由

が必要だと僕は勝手に確信しているんですが、今の日本にはそれが在るようには思えない。

 

だから、今の日本人のメンタルはかなりやばいことになってるんじゃないのかなぁと思う。

世俗にもたいして楽しみは見いだせず、神にもすがれないんだから。

 

そこで必然的に、「心の時代」とか「自己成長」とか「自分らしく生きる」ということの関心が向いてくると思うんです。

 

みんなって誰?

 

はい、わたしのことです。

 

自分と向き合いすぎると生命力が弱る

上の方で、なんで偉そうに個人的な想いを述べたのかというと、

述べた内容がまさに、僕が辿ってきた精神的なプロセスそのものだからです。

 

世俗にも価値を見いだせず、神(とか宗教とか)を信じることもできない。

だから、「確かに存在する自分と向き合う」てことを始めたんです。

自分の感情や思考を辿ってみたり、

ホントは何がやりたいんだろう?なんてことを探ってみたり、

いずれなくなる命なら、どういう人生を全うしたいか?ってことを考えてみたりしました。

 

その結果、何も分かりませんでした。

 

いや、ホントに。

 

俺は人生でこれを成し遂げたい!とか、

このために命を賭ける!

みたいなものは見つからなかったんです。

 

なんでかって、自分にとって、自分の命=人生より重たいものなんてないから。

恋人や家族がいれば話は別かもしれないけど、

生きる理由が他人のためっていうのは、昔から違和感が拭えないんです、僕は。

 

誰かのために生きる、他人を幸せにするために生きるってよく聞きますが、

"じゃあその他人は何のために生きてるの?"って問われたら、答えようがないじゃないですか。"AさんはBさんのために、BさんはCさんのために、CさんはDさんのために生きるのか?なんだかネズミ講みたいだなぁ。"などと思ってしまいますし、

それでは家族や身寄りのない人は生きる理由がないってことになりますよね。

そんなのおかしいじゃないですかー。

 

 

というわけで、自分が納得できるだけの生きる理由を探そうとして、自分と向き合ってみたんですが、何も分かりませんでした。

 

それどころか、かなり、、、そう、かなり精神状態が悪化しました。

 

それもそのはず。

 

こういう、答えの出ない大きな問いっていうのは、

昔から哲学者とか宗教者が一生かけて答えを出そうとしても分からずじまいで、自殺したり、発狂したりするような代物なんですね。

だから、例えば仏教の僧侶は出家をして、その問題だけに取り組む。

それでも分からないものなんです。

 

たぶん、答えが分かったって言う人は、何かを無条件に信じているんだろうなぁと思う。土台=信じるものがないと、答えは出せないから。

 

でも、分かっても分からなくても人生は続くのだ。